1. 沖田の鶴
2. 早乙女(さうとめ)塚
3. 霜降山の宝くらべ
4. 万歳山
昔、中尾に岡又十郎という若ざむらいがいた。又十郎は大鳥方という役目であった。大鳥方というのは、毎日、野山をかけめぐって、鳥やけものをとらえる役目だ。
ある年のくれのことだ。
「きょうはどうしたというのだ。鳥の一羽、けもの一匹とれない。」
又十郎は少し気を落として、家路についた。秋は日ぐれが早い。
沖田までくると、夕もやのかかった田の中に白いものが動いている。すかして見ると、それは二羽のツルだった。一羽は、もう一羽よりずっとからだが大きい。
「しめしめ、これでやっときょうの仕事ができた。」
又十郎は鉄砲をかまえてズドンと一発うった。ぱたっと大きいツルがたおれた。小さいツルは、おどろいて空に飛びたった。
「ようし、殿もきっとお喜びになるぞ。」
かけていってツルを拾いあげてみると、どうしたことか首がない。
「これはこまった。首なしの鳥はえんぎが悪い、これでは殿にさしあげることもできない。」
又十郎はそこらあたりを、手さぐりでさがした。けれども、首はとうとうさがしだすことはできなかった。又十郎はがっかりして、首のないツルをぶらさげてわが家に帰った。
それから一年たった。又十郎は、いつものようにえものをもとめて野山をかけまわったあと、沖田までやってきた。
時こくもちょうど去年と同じころだ。乳色の夕もやが野や田畑の上にかかっている。
「去年も同じだったな」
ふとそう思って、なにげなく田のほうを見ると、あのときと同じところに、ツルがいるではないか。こんどは一羽だ。又十郎は自分の目をうたがった。目をこすって、もう一度見た。まちがいない。
ツルだ。
「ようし、こんどは足をねらってやろう」
又十郎はねらいをさだめてひきがねを引いた。ねらいたがわず、ツルはばたりとその場にたおれた。又十郎はゆっくり近づいていって、ツルを拾いあげた。ぽろりと落ちるものがあった。見ると一本のくだのようだ。手にとって、又十郎は、
「あっ。」
とさけんだ。それはツルの首であった。背すじを冷たいものが走った。手からツルがすべり落ちた。
「さては、二羽のツルはめおとであったか。かわいそうなことをしてしまった」
又十郎は、いまうたれたツルが夫の首をつばさにだいてずっとひとりでくらしてきたことに気づいた。
そのあくる日、又十郎は殿さまにお役ご免を申し出た。
その後、まもなく、山深い万倉の里(宇部市万倉地区)で百姓をしている又十郎のすがたが見られたという。
(※ 長州藩では鶴を捕獲殺傷することを禁じていたが、ただ福原氏の家士に限り、藩内何れの地を問わず、これを撃つことを許可していた。それがため大鳥方という職があった)
※この話は「宇部郷土史話」によると、『むかし高等女学校に教科書として採用しておった落合直文編「女子高等国語読本」中に載っていた。とある。なお、沖田は現在の川添町である。
昔から百姓は米を作るのが一番大事な仕事じゃった。今時のように減反やら農休田ちゅうものはおよそ思いもよらんことじゃ。
ところで、田畑仕事ちゅうものは、年が明けるとすぐに取りかかっておった。
正月の四日の朝のうちに、薪をこなげ(小さく折ったり、切ったりして炎えやすいようにすること)、これを五月のはじめにたきしろ(燃料)にしておった。それに、正月十一日の夜の明けんうちに人に出会わんようにして、その年の苗代をこさえる田に行って、鍬(くわ)で穴を掘っての、鏡餅を埋めて、その上に椎(しい)の小まい枝、モロムキ、ユズリハ、カヤを束ねて、田の神様に「今年も豊作にしてつかさい」と拝むそじゃ。
それがすむと地鎮祭りをやる。地鎮祭は、今年の豊作と去年のお礼を田の神様に申す祭りじゃ。普通これを荒神まつりといいよる。荒神まつりは順繰りに当屋(とうや)が決められて、当屋になった家へみんなが米を一合か二号か持ち寄って酒に魚で、早い話が飲み食いするんじゃ。
むろん、神様は祭る。サカキ、ツバキ、ホウにマツの大きな御幣(ごへい)を立てて家の数ほどの小まい御幣(小幣)をしつらえて(作って)拝む。小まい御幣をもろうて、めいめい方の田畑や苗代のみと(水戸=水の出入り口)に立てておくそじゃ。
祭りには土用様(天台宗の法師)をようで、琵琶を歌うて拝んでもろうソ。
それがすむとこんどは、もみまきがある。もみは、昔は本田一反に一斗もまいたちゅうが、なんとよけいまいたもんじゃ。そのもみをまいて、四十日すると田植えをする。
こいべの話はその田植のことが本番どナ。田植は、苗を植えるのに一番ええ日を「サゴ」といいよった。その苗を採る一番始めての日を、このへんじゃァ「サビラキ」ちゅうて、初苗三把をお盆に載せて神棚におそなえして、それに正月四日の初山で取った若木の薪でたァたご飯を上げて、祭ったもんじゃ。
その時はむろんのこと、田植をする早乙女(さおとめ)もよばれる(ご馳走になる)ことになっちょる。
ところが、ある年の田植の頃じゃったげナ。
大小路の田植で、おおごとの早乙女が、かすりの筒袖(つつそで)に手甲(てこう)を深うに付けて赤のたすきがけに、赤の腰巻のすそをからげて、脚絆(きゃはん)をはいて、皆んなそろうて
今日の田のサンポウさま
どっちから おいでるの
竜の駒の錦の手綱で
東から見えるソ
今朝鳴ァた鳥の声、
よい鳥の声じゃの
今日の田の千石ちゅうて
よい、よい鳴いたソ
と、歌いながら後すだりに田を植えよった。
ところがの、その中の一人が田の中に草があったけに、ヒョイと後ろを見んと畔に草を投げた。それが、たまたまふ(運)の悪いことに、そこを通りかかったさむらいの袴(はかま)にどべ(泥土)と一緒に当たった。
なんぎなことに、その武士は腹をたてて、その早乙女を打ち首にしてしもうた。
「やれやれ、むごいしうち(無惨な仕かえし)をするもんじゃ。」とそのへんの者はこの話を聞いて「おとめ塚」を作って、ねんごろにともろうた。
「おとめ塚」は、ほんこないだまで、松月院の裏の方にあったが、今は松月院におっちゃったおびィさま(尼さん)がお寺の中に移しちゃった。
じいさまのこいべの話はこれでおしまい。
以上は昔かたり風に記述したのだが、これによって、宇部方言なども知ることができよう。
昔、霜降山に厚東判官盛俊という武将が住んでいた。厚東判官は、周防・長門(山口県)、安芸(広島県)の三国をおさめる武将で、たくさんの宝ものを集めていた。
ある雨のふりつづく五月のある日のこと、
「こんな雨つづきで、城の中にばかりおるのはあきあきした。なにかおもしろいことでもあるまいか。」
と、判官はつぶやいて、ふと、床の間の金のニワトリに目をとめた。それは、日ごろじまんしている金のニワトリである。
「そうじゃ、よいことを思いついた。」
判官は城中にひびきわたるような大声で、家来たちを大広間に集めた。
「みなのもの、よく聞くが良い。あすの朝、原武者兵庫包村(かねむら)とこの判官が宝くらべをする。」
と、大声で言いはなった。どんな一大事がおきたかと、息をひそめて判官のことばを待っていた家来たちは、思いがけないことばに、どっと声をあげた。
筆頭家老の包村はおどろいて、
「とんでもない。わが殿は三国一のおん大将。わたしのようなものでは、とてもとても…。」と、しりごみしたが、聞き入れられなかった。
あくる朝、城の大広間には、日ごろ噂されている判官のじまんの宝をひと目見ようと、おおぜいの家来がおしかけていた。
判官は、さも満足げに家来たちを見まわし、
「どうじゃ。これがわしの宝じゃ。よく見るがよい。」
と、声高々と言った。判官の指さす床の間には、なるほど三国一の大将がじまんするだけあって、それはそれはりっぱな宝ものがずらりとならんでいた。中でも金のニワトリ十二羽、金のネコ十二つがい、金銀、サンゴ、綾錦は目をみはるばかりであった。家来たちは、
「さすが、わが殿。なんというすばらしい宝の山だ。」
と、口ぐちにほめそやした。
ひととおり判官の宝を見おわると、こんどは包村の宝を見ることになった。
包村は、下の間のふすまを開いた。そこには、包村の長男太郎秀国以下、男の子七人、女の子五人がぎょうぎよくすわっていた。
「や、や、やあ。」
家来たちはおどろきの声をあげた。
と、すぐにおそば役の刑部友春の、
「一のご家老包村さまの勝ちいっ。」
という声が高らかにあがった。金のニワトリや金のネコといっても、生きているわけではない。子どもは、何にもかえがたい宝ものというわけだ。じまんの鼻をへしおられ、はじをかいた判官は、くやしくてくやしくてたまらない。それもそのはず、判官には子どもがいなかったからである。
判官はあまりのくやしさに、どうか子どもをさずかりますようにと、中山の観音さまに、七日七夜いっしんにいのった。
判官の真心が中山の観音さまに通じたのか、何か月かたって、玉のような女の子が生まれた。判官はたいへんよろこんだ。が、心配ごともあった。それは、姫が生まれた夜、ゆめまくらに立った観音さまのお告げのことだ。お告げによれば、姫は八歳になると命が終わるという。そこで判官は、いつまでも長生きしてほしいという願いをこめ、姫に万寿という名をつけてだいじに育てた。
やがて、八年の月日はすぎた。姫はますます美しく元気に育っていった。判官はむねをなでおろす一方、観音さまのお告げに腹をたてて「このうそつき観音め。人をだますな。」
と、こしを強くけった。それで、中山の広福寺の観音さまは、こしが曲がっているのだそうだ。それから何年かたって、三国一の武将といわれた判官は、包村のむほんにあってほろぼされ姫とともに自殺したという。
朝日さし 夕日かがやく木の下に「黄金千枚」「かわら千枚」と、うたわれている霜降山には、金のニワトリと金のネコが、今でもうめられたままになっているという。
この話は『城山くずれ』といって、天台宗の琵琶法師(琵琶をひく僧)が地神祭などで語った宇部では有名な話である。
※1955年発行の山田亀之介著「宇部郷土史話」<二十六 農村時代の娯楽>によれば
村田看雨先生の防長文化史概略に、
それから長門琵琶の歌楽であるが、盲人の琵琶法師が平家物語を語った。
それが後世に流行した平家琵琶で、長門は平家に因縁の深い所でしたから、ここが平家琵琶の発源地である。
然るに厚東氏が厚狭郡一面に武運を扶植(ふしょく)してから、長門琵琶の根拠は、いつの間にか宇部に移り、遂に宇部座頭・宇部琵琶の名を伝えた。
それを上歌(あげうた)と下歌(さげうた)と別けて、秘伝のものとしておりました。上歌は平家物語を専門に演奏し、下歌の方は厚東氏霜降城に関するもの、城山崩れ十二段は洽(あまね)く知られたものである。その外種々の雑曲俗謡を弾じて、宴席の遊興を助けたのです。
それから土用座頭また土用琵琶と申したのも、下歌座頭を招き土用の季節に荒神棚の前で土用経を琵琶に合せて読唄させたからである。
とあるが、果たしてそうしたものかどうか、私には分からぬ。が、土用経・地神祭・社日祭などは、今なお市の農業地帯の一部には行われている。
今から百年以上も前、広島に鎮台(明治の軍隊の呼名で、明治の時代ごろはこねェな呼び方をしよった)があった。宇部からも二十(はたち)の男の子は徴兵検査を受けて、甲種合格となると壮丁(兵士のむかしの呼び名)になって兵隊にとられよった。
むかしァのんきなもので甲種になっても、クジばねとか金を出して、兵隊にとられるそを代わってもろう者もやぁれん(たくさん)おりよったげな。
そのころの話で、まだ山陽本線も通うちょらんけに、広島まで歩いて行かんにゃならん。壮丁(兵隊)にとられるとなると、むら(部落)中あげての飲めや歌えの大祝いをしよった。そねェして、宇部の中心の寺の前の役場にあいさつをして、山門の八十八か所のわきか、京駕(赤松池の南側附近)を通って開へ出る。開から今の市営墓地のある高いところを出る。ここが周防と長門の境になる。これから片倉の方へ下るともう周防の国の吉敷郡になるそじゃ。
じゃから、竹ざおにのぼりを立てた壮丁の見送りも、このあたり(今の開市営墓地付近)まで来ると、いよいよお別れをしよった。壮丁にとられた若者も、ここで別れのあいさつをする。そねェすると見送りの中の主だった者が「ようやれよ。がんばれよ。体に気をつけェよ」と、大けな声で万歳をやる。皆んなもそれェ合わせて万歳をする。
それで、とうとうこの辺りを、昔の宇部の者ァ「万歳山」といいよった。今じゃ知っちょる者もおらんじゃろうテ。